鳥取藩13番隊山国隊研究会を発足

平成21年12月19日(土)に鳥取県立図書館において、鳥取藩13番隊山国隊研究会を立ち上げました。京都から山国隊軍楽保存会会長の川崎輝男氏も応援に駆けつけ、34人の参加者をいただき盛大に発足記念大会を行いました。

私の山国スタイルのイラストが参加者のイメージを大きく膨らませてくれたようです。
この日は、発起人の一人、私、森本が司会をさせていただき、もう一人の発起人である前田県議会議員に挨拶をいただき、川崎会長の記念講演をいただきました。
つづいて、私が今までに調べた事項について説明し、楽しく会を終えることが出来ました。
説明資料の一つを紹介します。
幕末の鳥取藩と山国隊の概要について
平成21年12月19日
鳥取藩13番隊山国隊研究会
鳥取藩は官軍として戊辰戦争の当初から加わっています。
慶応4年1月3日(1868.1.27)戊辰戦争の発端となった鳥羽伏見の戦いでは、圧倒的な数の幕府軍15,000に対し、官軍は薩摩と長州の2藩5,000でした。したがって薩長が劣勢であったのですが、ここで現れたのが、我が鳥取藩約280人と錦の御旗です。(戦いは3日夕方に始まり、5日に鳥取藩参戦)
当時の鳥取藩主は、池田慶徳(よしのり)といい、最後の将軍徳川慶喜の腹違いの兄です。
当然、池田慶徳は、薩長側に付けば実弟の徳川慶喜を敵に回すわけで、鳥取藩は辛い立場に立ちましたが、藩内の尊王倒幕派(家老荒尾駿河守、河田佐久馬等)のなかば独断で、当時京都にいた鳥取藩隊280人余が薩長側に味方したため、様子見していた諸藩の軍隊が薩長に流れ、極めつけは、皆さんご存知の「錦の御旗」が前線に登場し、薩長が官軍となり幕府方は賊軍となったのでした。
すると幕府軍は総崩れとなり官軍が大勝し、将軍慶喜は、兵隊達をほおって江戸に逃げ帰ってしまったのでした。これで、世の中が戊辰戦争を経て明治維新に突入していくわけです。
だから、鳥取藩は薩長と共に時代の魁だったわけです。なのに、明治維新=薩長土肥といわれて鳥取はつまはじきのままです。このとき、鳥取藩の13番隊として加わったのが、京都市右京区京北地区の山国の農民兵「山国隊」です。隊長は鳥取藩士「当初は馬場金吾、のち河田佐久馬に交代」、山国隊側は取締役「藤野斎(いつき)=日本映画の父「牧野省三の父親」」です。他にも司令士として後の同志社大学の創立者「原六郎」などもいました。
また、山国隊は、維新マーチ(ピーひゃらトントントン、ピーひゃらトントントン)で行進する軍楽隊が有名で、毎年京都で行われる時代祭の先頭を歩く「維新勤皇隊」のモデルであり、大正8年までは元祖山国隊が歩いていましたが、今は壬生地区の人が軍楽を教わり、山国隊に替わって行進しています。だから、時代祭の先頭「魁」は、鳥取藩13番隊山国隊が歩いているようなものなのです。
山国の方達は今でも「鳥取藩、因幡藩」と親しんでくれていますが、我が鳥取では、山国隊のことも、鳥取藩が官軍であったことも、明治維新の魁であったことも忘れてしまっています。150年の時を超えて鳥取藩13番隊山国隊を復活するのが、この会の最終目標です。
また、最後に山国隊歌の歌詞を紹介しました。
山 国 隊 歌
作詞:1・2番 品川弥二郎
3・4番 河田佐久馬
作曲:大村益次郎
1. 宮さん宮さんお馬の前にキラキラ光るは何じゃいな
トコトンヤレ トンヤレナ
2. あれは朝敵征伐せよとの錦の御旗じゃ知らないか
トコトンヤレ トンヤレナ
3.威風凛々山国隊の戦の仕方を知らないか
トコトンヤレ トンヤレナ
4.雨と降り来る矢玉の中を先駆けするのじゃないかいな
トコトンヤレ トンヤレナ
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戊辰戦争での鳥取藩の存在があって、鳥羽伏見の戦いは勝てたのでは、と思ってしらべておりました。
荒尾駿河の存在が大きいので本日、検索したところ、山国隊再結成行列に出会いました。、
おどろいております。より、当時のいでたちなのでしょうね。
すばらしい。喝采です。
鳥羽伏見の戦い。その近隣の平定。
甲州平定、宇都宮城の戦い、今市戦。
上野彰義隊との戦い。平城の戦いなど、白河城の戦い・・・・会津藩攻略へ
鳥取藩の活躍を見落としていました。薩長土肥因
でしたのに。日本を欧米の列強から守った貢献、見落としていてはだめですね。
投稿: OHKADO yasunobu | 2015年2月21日 (土) 11時06分
古い記事からのコメントありがとうございます。
私はこのブログのオーナーで映画「維新の魁ー鳥取藩飛翔-」映画監督兼鳥取黒木龍馬会事務局長の森本といいます。
維新マーチを150年間守り続けてきた山国隊が鳥取藩の部隊で、京都時代祭の先頭を歩く維新勤王隊のモデルだと知ってからはや7年がたちました。
今ではこのようなブログを立ち上げ、映画も作り、3年後の明治維新150周年には、薩長因土肥と言えるような鳥取幕末史の再興を目指して活動しております。
鳥羽伏見では、徳川一門である鳥取や岡山が薩長方につかなかったら、官軍が負ける可能性もあったと思うと、もっと、歴史の表舞台にでてもよさそうなのですが、その歴史は薩長新政府ににより抹消されてしまっています。
「鳥羽伏見では、鳥取と岡山には大変お世話になりました。」とは、薩長は口が裂けても言えないわけで、むしろ、不都合な歴史は消してしまおうという結果が今の幕末維新史になっています。
このことについて、鳥取や岡山の人はもっと声をあげないといけないのに、岡山はどうか知りませんが、鳥取県民はほとんど無関心です。
それをなんとかしなければと鳥取黒木龍馬会(山国隊研究会を改組)は孤軍奮闘しております。
今後ともごひいきいただきますよう、よろしくお願いします。
投稿: 因幡の幕末うさぎ | 2015年2月22日 (日) 14時38分
肝心の戦いに参加しない因幡藩
煮えたらくわーで戦法です。
卑怯者の県はお取つぶし島根県の端に入れてもらいました。
今もその精神は脈々と鳥取県民の県民性となって受け継がれています。
酒ばかり飲んで何もしない男の集まり。
女は働き者
投稿: | 2015年4月21日 (火) 01時10分