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2014年3月16日 (日)

<維新の魁>武田耕雲斎の墓参りに敦賀へ行きました

次回作「天下の兄弟喧嘩」に水戸藩家老の武田耕雲斎が登場しますので、敦賀の武田耕雲斎の墓参りを兼ねて銅像を撮影してきました。

かなり凛々しいお姿でしたが、誰がモデルなのでしょうか?

武田耕雲斎と黒木龍馬会の美田会長と私のスリーショット。

さまになっているなあ。

P1190283

そんでもって、お墓の前にすごいものを発見しました。

なんと、因幡(鳥取藩)の河田左久馬と北垣国道が奉納した灯篭なのです。

P1190254

右に彫ってあるのは、明確に河田左久馬とは読めませんが、河田と景の字、左の北垣国道との関係から察するに「河田左久馬」と思われます。

しかも、戊辰7月建之と書いてある事から、戊辰戦争のさなかに武田耕雲斎と水戸天狗党の霊を弔うために、鳥取藩の河田と北垣が灯篭を 献灯したことになります。

天狗党の中に河田と北垣の友人がいたのかなあ?

武田耕雲斎は、慶喜と一緒に都に来ていたので、その間に河田と北垣に会っていたのかもしれないなあ。

鳥取と水戸の絆はかくも深いものなのか!すばらしい。

感動の敦賀ロケになりました。

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コメント

ああ、もう、羨ましいなぁ!
敦賀は私も行きたくていきたくて仕方が無いです!
「絶対に死ぬまでには行くぞっ」と思っているので、その節にはよろしくお願い致します!?

武田耕雲斎の像は、ご本人もしくはご子孫の方をモデルにしたと思われます。
ご子孫の方のお写真拝見した事がありますが、よく似ていらっしゃいますよ。
それから、京に上った時の宿坊は本圀寺でしょうから、そこで水戸藩・鳥取藩の面々が出会っていたのですよね、きっと。遠くても近しい間柄ですね(v^ー゜)

ぽんたさんコンニチハ。
「死ぬまでには行くぞっ」とのこと、決意の程は良く分かりますが、「死ぬまでに」だといつのことになるか分からないので、今年行きましょう。思い立ったが吉日。そういえば、武田さんも「ぽんたの顔がみたい。」とおっしゃっていたようないなかったような。
あそこに行ったら、もの凄いパワーを感じました。
「ちょんまげ監督、まだまだじゃのう。」と言われたような言われなかったような。
武田耕雲斎や天狗党の皆さんのこの国を思う気持ちが伝わりました。無念の思いも。
これは、水戸で感じたのとは一味違うもの凄いパワーでした。
わたし、ちょっぴり霊感があるので間違いないです。
幽霊やオーブや妖怪を見たり感じたりした事があるので、その筋の感じはキャッチできるんですよ。
上野のホテルで悪霊に襲われたこともあるし。思い出すだけで鳥肌が立ちまする。キャー
武田耕雲斎の像のモデルは、ご子孫ですか。なるほど。孫とかが良く似ることがありますからねえ。
河田や北垣は、天狗党の面々と本圀寺で国事を論じていたかもしれませんねえ、きっと。
よほど親しいか同志でなければ、戦で忙しい戊辰7月に献灯までしませんよねえ。
この、灯篭の右側には、備前の家老 土倉正彦の献灯が立っています。
備前の人間も水戸に縁のある人がいるのです。
水戸・鳥取・備前は固い絆で結ばれていたんだなあ。なんだか感動してしまいます。
ぽんたさん、敦賀を見ずして死なれませんよ。見たら長生き間違いないでしょう。
あそこは、かなりなパワースポットです。

北垣晋太郎は八木良蔵として天狗党田中隊に参加していたようですね。

悪名を残した田中愿藏ですが、北垣「これは天誅組生き残りの土田衡平の采配だった」と語り残しています。

北垣国道が田中愿藏隊に属していたことは知っていました。北垣はかなり過激だったんかなあと思います。
先日、出石のお城祭りに行って片岡愛之助のお練りを見て歌舞伎に興味を持ち、8日に歌舞伎デビューをするため再度出石に行くことにしています。出石に行く途中、北垣国道や原六郎が学んだ青谿書院があったので立ち寄ってきました。
塾が保存してあり大変驚きました。資料館が近くに会ってこれもよく保存してあり驚きました。青谿書院の近くには平野國臣が捕縛された上網場があるので、8日にはそこにも行ってみたく思います。
生野の変は地味な事件ですが、武力倒幕に向けた重要な事件としてもっと注目されたらと思います。
私の水戸の友人が、武田耕雲斎の孫の武田金次郎が水戸に官軍として帰って、諸生党と戦う小説を出版することになりました。友人は桜田烈士の子孫の方です。
私は天狗党の乱が維新に何の影響もなかったとの通説は絶対におかしいと思っています。あの頃の事件が何の影響もないわけはないので、もっと研究去れたらなあと思います。
映画最新作「官軍の魁~荒尾駿河の大英断~」のロケが終わって、編集にかかっています。鳥取藩在京家老の荒尾駿河と岡山藩在京家老の土倉修理之介が将棋盤をはさみながら、倒幕への決意を固めていくストーリーで、寺田屋事件後の鳥取藩報告で明らかになった薩長同盟が軍事同盟だったことと、西郷から戸倉宛の手紙で荒尾が勤王党幕に動くよう調略されたことなど、最新情報を盛り込んだ台本に仕上げました。
この荒尾と土倉が寄進した石灯篭が敦賀の天狗党のお墓の入り口に立っているのを思うにつけて、水戸、鳥取、岡山の水戸一門の維新への貢献がほとんどほったらかしになっているのが残念です。
これに一石を投じる「官軍の魁~荒尾駿河の大英断~」にこうご期待!

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